HOUSENJI TEMPLE

浄土真宗(本山:京都市東本願寺:お東) 真宗大谷派:しんらん聖人のお寺

『宗祖としての親鸞聖人に遇う』

弟子一人ももたず

(義盛 幸規 教学研究所嘱託研究員)

 親鸞は弟子一人ももたずそうろう
 『歎異抄』第六条の言葉である(聖典六二八頁)。ならば、宗祖には師匠はいなかったのだろうか、弟子はいなかったのだろうか。否、宗祖には「よきひと」法然上人という師がいることを私たちは知っている。そして、真仏をはじめとした多くの門弟がいることも知っている。ならば、宗祖はどうして「弟子一人ももたず」と宣言したのだろうか。
 私が学生時代から、ずっと教えを受けてきた先生が、先日私の叔父と初めて対面した。その際、先生は叔父に「義盛君は私の友なんです」と話してくださったそうである。私としては、その先生から多くの教えを受けたし、当然師と慕う方である。しかし、私が師と慕っていたその先生は、私を弟子ではなく友、すなわち共に念仏往生の仏道を歩む者として見ていてくださっていたのである。その先生の言葉によって、私もともに念仏の仏道を歩もうと言うメッセージを聞いた。
  「師」と慕っている方が「友」と敬ってくださる、一見矛盾するような感もあるが、これが浄土真宗の伝統であろう。
 宗祖はその九十年の御生涯を通して多くの人に念仏の教えを弘めたが、宗祖にとって信心とは自らの力で発起するものではなく、また自らの力で他の人に発起させるものでもなかった。信心とは、どこまでも阿弥陀如来のはたらきによって発起するものであり、阿弥陀如来の前では誰もが煩悩具足の凡夫、一人ひとりが仏弟子である。だからこそ、宗祖は師弟関係を越えた人間一人ひとりの姿を見つめて「弟子一人ももたずそうろう」と宣言された。そして、多くの門弟から師と慕われながらも「弟子一人ももたずそうろう」と宗祖は宣言し、門弟を「とも同行」と敬った。宗祖は門弟をどこまでも、法然上人より受けた選択本願念仏の教えを共に聞く仲間として敬ったのである。重ねて述べるが、阿弥陀如来の前にあっては、師であろうと弟子であろうと、同じ煩悩具足の凡夫であり、仏弟子なのである。
 蓮如上人はそのことを、

  とも同行なるべきものなり。これによりて,聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり。(聖典七六〇頁)

と了解されている。思えば、

  他力の信心うるひとを
   うやまいおおきによろこべば
   すなわちわが親友ぞと
   教主世尊はほめたまう(聖典五〇五頁)

と和讃にあるように、私たちが釈尊と敬い、教主世尊と仰ぐ方もやはり、同じ念仏往生の仏道を歩む者として私たちを敬い、しかも「わが親友」とほめてくださる。
 ならば、私たちが師から受けるのは教えだけではない。教えとともに敬いを与えられている。そして、共に仏道を歩んでいこうと呼びかけられ、歩み続ける原動力をも与えられている。
 これが御同朋・御同行の道理なのだろう。
(『ともしび』2012年2月号掲載)
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真宗の教え



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『法語カレンダー』

確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる

出典:宮戸道雄『仏に遇うということ』

法話

関東地方の、とある小学校でのこと。

全校集会のたびごと、校長先生が生徒に向かって大きな声で呼びかける。「自分のいのちは!」――。すると、生徒は声を揃えてこう応ずる。「自分で守る!」。「その通り! よくできました」。
校長先生は満面の笑みで、さらに言葉を重ねて言うのだ。「みなさん! いいですか! 自分のいのちなんですよ。自分で守らなければなりませんね! しっかりがんばりましょう!」。

この言葉を、その小学校に勤務する教員から聞き、私は愕然とした。

まことしやかに壇上から呼びかける校長先生。そして、教えられるままに「自分のいのちは、自分で守る」と反復する子どもたちの姿が目に浮かぶ。私は懼れた。子どもたちは、この言葉をどのように受けとめているのか。

自分で自分の身を守れ、と教えることは当たり前のこと、と人は言う。それに、と言葉を続ける。子どものことだもの、ちゃんとわかって言っているのかどうかは、不明だ。今は覚えていてもじきに忘れてしまうだろう。たかが言葉。大したことじゃない。

しかし、と私は思う。その「言葉」が、人間を構築する。言葉によって、人は人となっていくのだ。「まことの言葉」に出遇うことなしに、人が人として生きることは成り立たない。

「いのちみな生きらるべし」と言う。そのように、生きるという事実と切り離して、私のからだのどこかに、いのちと呼ばれるものが存在するわけではないのだろう。いのちを我がものと思い込み、力の限り握りしめるとき、いのちは孤立する。孤立したいのちは、生きられない。

浄土の住人はなぜここに生まれてきたかを知っている、と聞いた。私はなぜここに生まれてきたかを知らない。それを知っているなら、頼むから私に教えてくれ。なぜ教えてくれないんだ。知りたいのなら浄土の住人になれということか。これは絶対にわかるはずがない。そのときふと思った。知ったならば、私は喜んで生きていけるのか、と。

どこまでいっても自分の思いでしか生きていない私を、確かに生きろと支える言葉がある。それは同時に、悲しいこの人生を、喜んで生きていく力をくれる言葉に違いない。

「確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる」――。まさに、「いのちの限りこの生を生き続けていく。その、生きることを支える力こそが、念仏なのだ」と、この法語は教えてくれる。しかも、その歩む一足一足の確かさは、私のはからいにはない。念仏にいのちを託して生きるとき、本当に確かな生き方が、私に恵まれる。生きていくことがちゃんと意味を持ってくる。それがすなわち「確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる」ということなのだと、私は思う。

今、ここに、このようにして生きているという事実そのままを生きよ、そう私に呼び返してくれるいのちが念仏なのだ、と親鸞聖人は教えてくださる。生きる、それ以外に生きることの意味はない、と、聖人の野太い声が聞こえてくるような気がする。

照井順子(てるい よりこ)
1952年生まれ。青森県在住。
奥羽教区光照寺住職。



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『大谷祖廟』

大谷祖廟とは

宗祖親鸞聖人が亡くなられた10年後、末娘である覚信尼が聖人の御影像を安置し、廟堂を建立したのが本願寺の始まりです。その後、いくたびかの変遷を経て、京都駅前にある真宗本廟東本願寺)は聞法の道場として、東山の麓にある大谷祖廟は聖人の墳墓の地として、現在に至ります。
大谷祖廟には、聖人をはじめ、本願寺の歴代、全国各地のご門徒の方々のご遺骨が納められています。苦悩を縁としてすべての人びととともに仏道を歩んでいかれた聖人のお姿を慕い、多くの門徒によって護持されてきたのが「大谷祖廟」です。


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『お内仏に入れないもの』

お内仏に入れないもの

 浄土真宗は如来一仏をご本尊とします。二仏を並べません。お内仏は、如来の教えに人生を学ぶご家庭での道場といえます。

 お守りやお札、故人の写真 位牌や遺骨などはお内仏に入れません。一度点検してみましょう。

『正信偈の教え-みんなの偈-』

正信偈」は、私たち真宗門徒にとって、はるか以前からお内仏の前でおつとめしてきたお聖教です。私たちの宗祖である親鸞聖人は、本願念仏の教えが釈尊の時代から七高僧を経て、ご自分にまで正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受けとめられました。「正信偈」は、親鸞聖人がその感銘を味わい深い詩(偈文)によって、後の世の私たちに伝え示してくださった「いのちの偈」なのです。
正信偈の教え みんなの偈」は、その歴史と伝統を学び、そこに込められた親鸞聖人のおこころに触れていただくことを願いとして、「正信偈」の一句一句を丁寧に読み解いたものです。私たち一人ひとりが「正信偈」の言葉にふれ、毎日のおつとめがさらに意義深いものとなることを願います。


http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/shoshinge/

『亡き人を縁として』

お守りを持たない理由
朱印をしない理由
お経に遇う
亡き人を縁として
いま浄土とは…
南無阿弥陀仏って何?
真宗にとって供養とは?
人は死んだらどうなるの?


http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/